湯山哲守追悼集「われこそ紅し 満天星」発行
湯山君との心の約束 山本正志
2020年4月12日 湯山哲守さんが1年7ヶ月の
膵臓癌の闘病生活の後、自宅にて家族に看取られて亡
くなった。
その後、湯山さん宅を訪ねた山本は夫人のちいほから
相談を受けた。「彼が遺した膨大な資料(新聞・雑誌
の切抜き、学生運動当時のビラや方針書などの資料、
自己の発表論文や投稿類などの他に、個人的なメール
のやり取り、その他川口是先生関係の資料もあるが整
理のしようがない」とのことであった。
そこで私(山本)は「もしよければ私が預かって目を
通し、破棄してもいい(新聞記事・雑誌論文コピーな
ど)資料と残すべき資料類を分類・整理してはどうか」と申し出た。
湯山家から私宅に運びこまれたのは車2台分の資料類で、私はおよそ7、8カ月かけて
すべての資料に目を通し、個人とのやり取りのメール、集会参加者名簿、署名や会員名簿、
会計書類などはシュレッダーで粉砕し、残りは古紙回収に出した。
その上で、ちいほに報告し、追悼集掲載の「湯山資料」となった。
経過は以上であり、今回私が寄せた追悼文から一部を紹介する。
私の京大入学は1965年で、湯山君とちいほは1学年上です。
私は岡山の倉敷青陵高校2年で民青同盟に加盟、生徒会活動もしていました。入学時、京大
民青同盟からの勧誘があり、それ以来学生運動の仲間とともに活動することになりました。
湯山君とちいほに出会ったのもその頃です。当時女子学生は「○○さん」と呼ばれていまし
たが、ちいほだけは「小野さん」ではなく「ちいほ」と呼ばれていました。
入学後の6月には教養部自治会正副委員長選挙、同学会代議員選挙があり、当時京大は「主流派」
といわれる社学同やマル学同中核派が同学会、教養部自治会執行部を牛耳っていました。教養部
自治会副委員長候補の私がなんと中核派の候補と僅差差で当選、委員長は社学同。執行委員会は
多数を確保、教養部自治会の民主化を半分実現しました。この時同学会代議員多数派を獲得、
「主流派」を追放し、委員長には村上治充さんが選出され民主化が実現しました。
翌年66年12月には湯山君の後任として同学会委員長に選任をされ、2期勤めましたが、当時の京大
学生運動と言えば67年6月の自衛官入学反対闘争です。「現職自衛官の京大入学反対」との声が大
きくなり、ついに各学部でのストライキ、全学学生大会を成功させて、6月30日全学ストライキに。
徹夜の総長団交を満員の法経第一教室で行い、奥田総長はついに「自衛官入学は好ましくない」
という京大としての公式見解を表明することになりました。全国的に大きな成果です。
1969年、全共闘の策動が激しくなり、京大でも1月、寮闘委が学生部封鎖を行いました。京大五者
連絡会議(同学会、院生協議会、職員組合、生協、生協労組)は全大学人に呼びかけ、「封鎖解除
・大学民主化」という呼びかけの下、奮闘し、時には実力で全共闘の時計台封鎖解除、各学部自治会
の民主化を進めていきました。
さて私は学生運動に明け暮れ、教養部で単位を取り損なった結果留年したのですが、この時に学年末
試験にあたって教務課に行って確認したところ「小野理子先生のロシア語に登録をしている」とのこと。
試験当日教室に行くと私と湯山君、木村君の3人が机を並べて答案用紙に向かいました。試験が終わって
小野先生は私たち3人の前にやってきて「あなたたちは1回も私の授業に来なかった。学生運動もいいけ
れども専従にでもなるつもりですか」といわれたことを今も覚えています。
湯山君が去年4月に亡くなった後、自宅を訪ねてちいほの話を聞き、「残されたこれらの資料を整理し
てほしい」とのことで、自宅に引き取って今年春までかけてすべての資料に目を通しました。
整理をしてみると主な分類としては、最も多かったのは@、A、Gです。
@時事問題に関する新聞の切り抜き、そして雑誌「世界」を中心とした学者知識人・評論家などの論文のコピー、そして湯川博士をはじめとした古い書籍のコピーや原発問題をはじめとする専門書が多残されていました。
Aそして彼が関わってきたNHK問題に関する新聞だけでなくWEBニュースや解説の印刷物など、発表してきた見解、申し入れ、そして集会での報告などのレジメや講演・写真などの記録も多数残されていました。これは実に膨大な資料で今でも彼のパソコンの中にはきちんと整理をされて項目ごとに一覧表になっています。
⓷こうした活動の中で、NHKドラマ「坂の上の雲」問題、籾井NHK会長の辞任要求と受信料不払い運動、従軍慰安婦問題、大阪維新の橋下問題、森友加計問題など、その時々の課題を追求、全国的にも講演や学習会などに参加しており、屋久島での講演、東京でのNHK包囲行動など、幅広く行動しています。(講師活動の記録もPCに残されています)こうした問題の関わりの中でいろんな人たちとの膨大なメールの交換の記録などもあり、交流と論議を重ねていた経過がわかりました。
Cまた彼が関わったその他の分野の項目で、一つは京大職員組合の時代の活動です。1969年教養部に就職をした後、京大職組副委員長に2回就任しています。主には職員の待遇改善や教養部再編の問題、そして色々な制度問題などにも関わっています。
⓹1982年の京都府知事選挙に川口是先生が出馬をするにあたっては川口先生を支え、共産党京都府委員会や社会党本部、総評などを含めた実に多くの方々と折衝を重ねてきたこともわかります。
資料の中には川口先生の出馬をめぐる(当時党籍を持っていた)中央委員会上田耕一郎副委員長、京都府委員会笹井欣也副委員長との対話や文書でのやり取りの詳細な記録も残されています。こうした文書類を湯山君に託した川口先生の思いが偲ばれます。彼自身も川口先生の処遇に関して京都府委員会あての文書で自分の「所信」を残しています。そして川口先生亡き後も「川口研究会」が組織され、川口先生追悼文集を作成、また『権力の仕掛けと仕掛け返し』という本も出版されました。川口先生の京都国公学習会などの講演記録も資料に収録されています。これら川口先生関連の資料は私の手元に預かることになりました。
E京大で「非核の政府をつくる会」を組織してその中心的な役割を果たしますが、やがては京都全体の「非核の政府を求める会」の活動にも参加、憲法集会の企画などにもかかわって、この分野での資料も集会記録、講演記録、事務局資料などが残されています。
Fまた地元で「京極春日の会」の憲法九条の会の中心としての活動や京都九条の会事務局としても活動してきました記録も残っています。
⓼彼の学生時代の資料集積は緻密で、いくつかのケースに残された資料には「学生新聞(共産党中央委員会発行)の切り抜きが16冊のファイルに整理されています。また自治会選挙政策や自治会の議案書など多くのビラ類も残されています。
その他、学生時代(1回生時)に参加した京大部落問題研究会では田中の地域での子供会に参加をしていたのですが、この部落問題研究会OB会の活にも参加をしています。沼津東高等学校の卒業生であった彼は、OB会(香陵同窓会)の役員もつとめていて色々と交流があったようです。研究面では「プラズマ研究」に取組んだことは学術論文サイトで見ることができ、総数は120件を超えますが、私には専門外なので、英語の論文は理解不能です。
湯山君との「心の約束」
私は京都市会議員当時、退任以降もいくつかの団体に所属してきましたが、主な活動分野は2つ、河上肇記念会と京大学生運動史研究会です。(その他、日本科学者会議等)河上肇記念会は1987年に市会議員になって以降世話人として参加し、2009年からは事務局長として会報の発行や毎年10月法然院で行われる法要・墓参・市民講演会などの企画に10年間ほど関わってきました。それにともなって色紙や書簡、書籍なども関係者・遺族から寄せられ、河上肇に関わる書籍・書簡類もかなりの量になってきました。特に世話人代表であった一海知義先生の遺族から託された河上肇関係の書簡その他の資料などもあります。
京大学生運動史研究会は私が市会議員退任後、かねてからの思いを実現するために企画した研究会ですが、2011年から毎月テーマを設定して開催、『月報』を発行して関係者に届けてきました。(内容にもよるが会員以外には非公開)。こうした分野の資料も書籍、当時のビラ類、個人資料などかなりの量になっていて、「もし私に何かあったら…」と思案し続けていましたが、「最後は残された資料類の処理は湯山君に託すしかないか」との思いを胸に秘めていました。(本人に伝えたことはないが) はからずも彼の方が先立ってしまった。
今回湯山君宅を訪ねて、ちいほから「残された彼の資料をどうするか…」と相談され「これも自分の役割か」との思いで取組んできた、というのが事の経過です。